2010年02月13日

映画鑑賞記「おとうと」W

  吟子は鉄郎の態度に激怒し追い出してしまいます。その際鉄郎は変な咳をして吟子の心に引っかかっていました。時は流れ、突然大阪のホスピタルのような民間の救護所のような所からもう鉄郎は永くないと告げられます。彼は病院に担ぎ込まれたのですが、支払いも出来ずにここに引き取られたのです。私たちはこのような民間の施設があることを教えられます。本来なら国が面倒を見なければならないはずなのに、生活保護をもらいこのような施設で最後まで面倒をみているのです。その実態も映画は訴えています。本当にこんな事でいいのだろうか、個人や誠意ある人たちに生命の終焉まで面倒を見させているのです。日本にはちゃんとした憲法が有るはずなのに順守されていないことを目の当たりにするのです。
  そこは鉄郎にとって天国のような場所だったに違いありません。好きなお酒を隠し飲みしたり、芝居の真似事をしてホームの人たちを楽しませたり困らせたりした様子が語られます。この場面も山田洋次監督の真骨頂です。生活の断面から社会の構図や問題点を鋭く切り取っています。私はこの場面も少し気になりましたが、こうして時間が経ち書いているとこの映画の伝えたいことが鮮明に蘇ってきます。観ているとき気になったのは、余りにもそこに働いている人たちが立派なのです。それは確かに立派な仕事をされているし、人生の最後を看取ること自体大変なことなのに黙々と厭わずに世話をされておられることに畏敬の念を持ちます。でもそこに僅かな反発というか気に入らないというか、そのような気持ちが起こったのです。それは私の人間として至らぬ所だと思いますし、博愛の精神の欠如だとも言えるでしょう。
  映画は鉄郎が死に至るまでを切々と描きます。私はこれは禁じ手と思うくらいです。人の死ほど尊厳があり、また不思議な世界はないと思うのです。こんなにじっくりと撮られ見せつけられると、観客は様々なことを感じざるをえません。と言うのも、つい最近義母を亡くしたばかりなのです。妻には堪えたと思います。どうして山田監督はこんなにまで死に至るまでを描いたのだろうかと思わずにはえません。このどうしようもない弟ですが、人に迷惑を掛けっぱなしだが死に際しては等しく平等でたまらなく愛しいものだということかも知れません。姉に目が覚めると怖いと呟きます。吟子はリボンで手を繋いで起こしてくれと言います。このシーンは嗚咽が漏れるほど哀しく、もう全てを許せる場面だったと思います。悲しいのではなく、哀しいのです。どんな人間だって死んでしまうとそれは想い出になり、また憎しみにもなります。しかしそれを乗り超える精神を生きている人は持っているということかもしれません。鉄郎という生き様と死に臨み人間という存在、尊厳というものを伝えてくれたような気がします。
  こう書くと映画の出来は素晴らしいように思えますが、私は不満は沢山ありました。それは心にしまって置くとして、人生の半ばを過ぎた私には最近の山田作品は娯楽、喜劇というものを超えた教条的なものを感じてしまいます。それは決して良いとは思いませんが、こんな監督は多くはいません。映画を通じてそんな多くのことを感じさせてくれるのも山田監督ならではと思っています。
                          終わり
posted by ヒロシ・マックイーン at 07:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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